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【だらだら】何のために生きているのか。

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こんばんは ましゅーです。

( ゚д゚)ウム 花見に行きたい。

今年は行けるかも知れませんね。

ねこーん

マスクの着用はお客さまの判断でお願いします。と言う場所が増えて来ました。国もしなくて良いですよ、と言うおふれを出しましたし、いよいよ本格的にコロナも収束したという事なのでしょう。(終息ではない。)これからは、他人が気になる人の方がマスクを着用するのが常となりそな予感。

でも、近くで咳とかしている人がいると気になっちゃうよね。

ここから本編

今回の話題は【だらだら】です。

(`・ω・´)シャキーン キリっと書きます。

しゃなななな、タクトホーム~。

ねこーん

好きな事、書きたい事をダラダラと書き綴っていくのは楽しいです。最近はこの記事がストレス発散になってるのを感じます。文章を書くのは楽しいのだ。

何のために生きるのか

人は20代の頃から、早ければ10代から仕事に従事してお金を稼ぎ始める。どんな綺麗ごとを言っても、先立つものが無ければ、何もできない状況に置かれている。

普通に働いて8時間。それから更に残業で…。どうだろう、週に45時間ぐらいの労働なら少ない方だと言えるだろうか。一日は24時間、24時間×7日で168時間/週。実に30%近い時間が仕事へ費やされている訳だ。

失っている時間は多い。そうは分かっていても、先立つものが無ければ何もできない。お金が出なければ、明日食う飯にすらありつけない状況となってしまう。いや、明日食う飯どころか、雨露を凌ぐ宿すら失うかも知れない。

だから、働く。時折、自分の人生は何のためにあるのかと考えながら。

飯を食って、寝るために稼ぐ。やりたい事をやるべき時間を削りながら。時間は有限で取り返すことが出来ないと分かりつつ、それでも時間を失いながら働いてゆく。

家庭があればよいのかも知れない。養うべき家族がいることで、自分の人生は無為でないと主張できるかも知れない。少なくとも、「自分がいなければこの子供たちはどうなるんだ。」と自分に言い聞かせる事が出来る。毎日の無為な生活に意味を見出すことが出来る。

しかし、子供を持つ、または家庭を持つことは大きなリスクを伴う。蝶よ花よと育てた子供が、スシローの醤油さしを舐めたりするわけだ。そして、その行為は若気の至りではなく、決してぬぐえる事のないタトゥーとなってインターネットに浮遊し続ける。憔悴しきって子供の過ちを詫びる親の顔を見ると、心からいたたまれなくなる。

自分の人生と子供の人生は違う。ごく当たり前の話ではあるが、子供がしでかした事に関してそうやって逃げを打つことは出来ない。子供は親の宝でありながら、時としてそれを上回るほどの毒ともなり得る。

子供のために人生を失う事は出来ない。自分の人生を自分なりに楽しみたい。物が豊かになるほど、こういった考えの人間は増えてくる。その結果、人は結婚をしなくなり、子供も作らなくなる。

国が先進国になればなるほど、この現象は起きる。そして、人口が減るほど、福利厚生が成り立たなくなる。自分の人生を大切にする人間が増えるほど、年金などの問題が襲い掛かって来るわけだ。

それらから自分を守るには、ある程度のお金を稼いでおく必要がある。体が充分に動くうちに。だから今、FIREという言葉が流行っている。若い頃からガッツリ稼ぎ、人生を楽しむために早期リタイアを目指す。という言葉が。

果たして、それはどういう意味なのか。人生を楽しむために早期リタイアする。その為に若い頃はガッツリと稼ぐ。つまり、リタイアする為のお金を頑張って稼ぐわけだ。という事は、人生のリタイアのために人は頑張って働いているという事になる。リタイアのために頑張って働く―。そう考えると、何をしているのか分からなくならないか。

お金は物事を解決するツールでしかない。なので、物事を見誤ったり、見失ったりすれば、たちまち人生は無為な物となってしまう。おそらくは、必要な金額が必要なだけあれば事足りる訳だ。でも、明日の生活を考えれば、お金を少しでも多く残して置くことが心の平穏に繋がる。

だから、また今日も働く。自分がしている事に理由を付けながら。果たして、自分の生とは何なのかを考えながら。

日々を刹那的に生きていく事は簡単であり楽である。人生を見つめず、ただ楽しければ良いと生きるのだから。ただ、その生活が刹那的であると気付いた瞬間に、また同じ悩みが頭をもたげ始める。自分の生きている証とは何なのかと。

悩むことで人は成長する。しかし、悩み続けることに意味などない。例え自分が悩みに悩んでこの世から消えたとしても、明日は同じ日が昇り、務めている会社は恙なく動き始める。心配しなくても、貴方の世界を回す力は驚くほど微力だ。おそらくは働きアリと変わらないぐらいに

ただ、貴方を思い涙する人は少なからず居る。そう考えると、貴方が生きた証はあなたが決めるのではなく、貴方の周りにいる人が決めるのかも知れない。だから、人は承認欲求を求めるのかも知れない。自分はここに居る(居た。)と認められたいがために。

人は何のために生きているのか。

おそらく答えは出ない。今まで数多の哲学者が考えても見出せなかった答えなのだから、自分が答えを出せるなどと思わない事だ。ただ、自分を騙すことは出来る。「おそらく、これが答えだ。」と自分を納得させることは出来るのだ。そうやって生きている内に、やがてその日は来るだろう。

まとめ

(`・ω・´)シャキーン だらだらっと書いてみました。

ループな話ですもんね。

ねこーん

時折、真面目に考えて見る問題ではあります。でも、記事中に書いてある通り、答えなど出ないんですよね。おそらくは自分で答えらしきもので納得するしかない。でも、考えることは大切、ひょっとしたら、自分の生きる証にハッキリと気付ける日が来るかも知れませんから。

今回はここまで。次回は楽しい話を書きたいですな。

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